【You Kiss My Lover】
ドアを開けると部屋の照明が点いていた。たたきには自分のものではない男物の靴が、一点。
自分が帰宅したのは判っていように、闖入者は姿を見せなかった。まぁ小野寺の方も相手の性質(たち)を熟知している為大して気にも留めなかった。
果たして、室内の雰囲気に唯一そぐわぬこたつに肩まで潜り込んだ菱井が天板に顎を載せてテレビを、見ていた。こたつは彼にせがまれて買ったものでほぼ菱井の所有物のようになっていた。
「良介。いま帰った」
「んー、おかえり優」
さも億劫そうに、顎を浮かさないまま菱井は言う。小野寺は黒のロングコートを脱いでハンガーに掛けた。
菱井の視線が背中を追ってくるのが、判る。
小野寺は冷蔵庫の最奥に仕舞ってあった、シックなラッピングがされた箱を出してきて菱井の向かいに座り込むと箱を彼の目の前に、置いた。
「良介。今年の分のチョコレートだ」
すると菱井はやっと両腕をこたつから出して姿勢を、正した。
「サンキューな、優」
ほにゃりと相好を、崩す。
最初のバレンタインからずっと、小野寺から菱井に贈るのは菱井がその年に最も興味を惹かれたチョコレートだ。二月が近付くと増える、雑誌のバレンタイン特集やデパートの催事のチラシから菱井が選んだそれを小野寺は持てる全ての手段を用いて手に入れる。時に酷い難易度のこともあって、今では流石に菱井も思うところがあるのかチョコレート交換の時だけは日頃に比べてずっと素直だ。例え小野寺のチョコレートが前々から用意してあり、冷蔵庫の中に鎮座していたのを知っていたとしても。
「お前からのはどうした?」
「あー、今お前疑っただろ。ちゃーんと用意してあるぜ?」
そう言って菱井は天板の上に転がっていた、掌に乗る程度の大きさの細長い箱を掴んで小野寺に突き出した。小野寺が掌を上に返して出すと、ぽろり落とすように渡される。
「――何だ?」
「まー開けてみろって」
菱井から小野寺へのチョコレートは、正反対に菱井が好きに選ぶのが慣習となっている。手作りこそきちんと両思いになってから最初の一回しかなかったが、菱井もまた毎年真剣に吟味している筈だった。
とにかく開けてみなければ始まらないだろう、と小野寺は渡された箱を開封した。中から出てきたのはどう見てもリップクリームのケース。キャップを外して胴を回すと中身がせり上がってくる。
「何だ、これは」
小野寺は思わず、先と同じ言葉を呟いた。
それはケースの印象に違わず口紅としか言い難い形状を、していた。
色が辛うじてビターチョコレートのブラウンをしているのと、表面に金粉が散っていることから辛うじてそれが「本物の」チョコレートであることが、判る。
へへー、と菱井は人の悪い笑みを浮かべている。
「……まさか、お前はこの前の事を未だ根に持ってるのか?」
「さーな? でもお前はキスマーク似合うと思うぜー?」
半ば強引に連れ出された新年会に、これまた強引にシャツの肩に押印された紅い口紅の痕跡を菱井がやけに据わった目で見ていたことを小野寺は思い出した。負けず嫌いだが小野寺を心から信じている彼のことだ、恐らく腹を立てたからではなくこちらの弱みを握れたと考えてのチョイスなのだろう。
――しかし小野寺も、易々と菱井に勝ちを譲る気は、無い。
惚れた方がと言う意味では小野寺は永遠の敗者だろうが、自分は菱井にとってずっと「負けたくない相手」と思われ続ける存在でなければならないのだ。
小野寺はおもむろに左手で菱井の顎を、掴んだ。
「みょっ、あ、あいうんあ!!」
怒鳴ろうとする口の両端を指で強く、押さえる。突き出された唇に、小野寺はチョコレートの先端を押し当てた。
そのまま菱井の口に、チョコレートを塗り付ける。薄いブラウンに染まった唇は、金粉でところどころきらきらと輝いた。
そして、小野寺はチョコレートの薄い膜を舌先で舐め取った。
「ああ、確かに甘いな」
「おっ、おま! 何恥ずかしーことしてんだよ!!」
「俺はこうやって『食べる』ものだと理解したが?」
小野寺の言葉に菱井は、真っ赤に染まった顔を複雑に、歪めた。
菱井からの本当のプレゼントであるチョコレートリキュールを受け取ったのは、チョコレートの口紅が半分程にも減ってからだった。
(2012/02/14)
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