「昨日のチラシ、お前らのどうだった?」
「おれのは字ばっかで、しかも説明短かったんだけど」
「俺のは写真付き、でも数は少なかった。天宮のは?」
「……」
「おい、顔色悪いよ。どうした?」
「何だろ、風邪、かな」
認識する、という事ほど恐ろしいものは無い。
一度気付いてしまったら最後、どんな些細な物事が「それ」に直結するのか、自分自身すら全く判らない。
朝、俺はひたすら北斗や両親の前で普通に振る舞うことに徹した。
「やべ、かけすぎた」
噛み千切るために傾けたトーストから、染み込まなかったぶんのハチミツが顎を伝う。親指でそれを拭って舐める、何気ない仕草にすら過剰な意味を読み取って、自分の分を塗ろうと思った手が止まった。
「あれ、お前ハチミツ塗らねぇの?」
「……バターだけで良い」
なんでもない顔がちゃんと出来ただろうか。北斗におかしいって思われなかっただろうか。
急速に失せた食欲を必死で誤魔化して朝食を食べ切り、洗面台の前に立ったときだった。
鏡に映っているのは紛れも無い自分の顔。
なのに俺は、それを北斗のものとして知覚した。
中身は別個の人間として成長した俺達は、容姿だけは未だに殆ど瓜二つだったのだ。
首を振ってもう一度鏡を見ると、今度はちゃんと「俺」が見えた。
無性に笑いたくなった。
「日曜日デートなんだ」
北斗の無邪気な笑顔を見るのは久しぶりだ、って感じたけど、それは俺に向けられたものじゃない。
あれから一週間が経ち、北斗と小泉さんが付き合い始めたことは、周囲には概ね知れ渡っていた。ただ、うちのクラスの連中は半信半疑、といった感じだった。
「同じクラスにお前がいるのに、何で?」
友達にはだいたいそう訊かれた。俺は答えなかったけど、小泉さんの意図は何となく察していた。
それでも異性の他人である彼女は、どんなつもりであれ堂々と北斗に告白できるのだ。
最初は打算でも、付き合っているうちに「本当」になるかもしれない。
だからあの放課後の事は、北斗にも誰にも話さず、俺一人の胸にしまっておこう、と密かに誓った。
緊張して寝れないかも、って言っていた北斗は、言葉とは裏腹にリビングのソファで眠り込んでいた。部屋が別れて以来、これもまた眺められる機会がめっきり減った無防備な寝顔は、自分自身を代用に出来ないものだ。
すぐに諦めれば、一刻も早く忘れられれば傷は浅くて済む、と頭では解っているのに、俺は鏡の向こう側に北斗を探してしまう。自由に触れる事が出来、抵抗するどころか悦びさえするこの身体は何で北斗のものではないんだろう。細胞の一つ一つは言うに及ばず、遺伝子という設計図のレベルからして全く同じもので構成されているはずなのに――。
そして溜まった熱を吐き出すたびに、罪悪感と虚しさで途方に暮れるのだ。
寝る間際の母さんから北斗を起こすよう頼まれたのに、俺は声を掛けることすら出来ずに立ち尽くしていた。キスとかって出来んのかな俺、って独り言を言っていた北斗を思い出して泣きたくなる。
どうせ叶わぬ恋ならば、せめて想いを捨てる前に北斗の最初のキスが欲しい。
迷った末、俺はソファの側に膝をついて、恐る恐る北斗のそれに自分の唇を重ねた。
少し乾いた、けれど何処までも柔らかい感触におののいた俺はすぐに顔を離した。それが合図だったかのように、北斗が薄目を開く。
「ん、んっ」
「北斗? 母さんが、ちゃんと風呂入ってから寝ろ、だって」
「わかった……」
北斗は目を擦りながらゆるゆると立ち上がり、普段からの癖で上半身の服を脱ぎ捨てながら自分の部屋に着替えを取りに行った。その姿を見送りながら、俺は後悔していた。
諦めるためのキスのせいで、かえって俺は引き返せないところまで来てしまったのだ。
北斗と小泉さんは付き合い始めてから一ヶ月もしないうちに別れた。
「俺、お前の代わりだったみてぇ」
振られた日、北斗は俺の顔を見ないでそれだけ告げた。
彼女との間にあった事を隠している俺は、謝ることも慰めることもその時は出来なかった。けれどあまり時間の経たないうちに北斗は真相を知ってしまった。掛けた保険を破棄してから、小泉さんは以前俺に振られたことも周囲に吹聴しだしたのだ。
制服のままこっちの部屋に来た北斗は、俺を責めた。
「南斗、何でずっと黙ってたん? 俺が浮かれてるの見て影で笑ってた?」
「違う、俺は知らない方が北斗が幸せになれると思って」
「俺、いつもお前に間違われんだ。学校ん中歩いてると、南斗の友達とか、先生達まで俺をお前と思って声かけてくんだよ。それでクラス章見て、大抵は慌てて逃げてくし」
酷い時には街中でも取り違えられるのだ、と北斗は俺を睨みながら言った。
「しかも謝りもしねぇのな、俺がお前じゃないから――あの子も。俺もう嫌だ、だから南斗、学校では俺のこと放っといて。目立ちたくねぇから」
俺が返事に困っている間に北斗は出て行った。
俺と北斗との間に出来た溝は、いつの間にか取り返しがつかないほど拡がってしまったことに気付いた。
翌日登校した時、小泉さんと目があった。
「あ、おはよう南斗君」
俺は軽蔑を込めた視線で彼女を一瞥し、冷ややかな声で告げた。
「――最低」
双子の片割れと小泉さんが付き合い始めれば、俺が妬いて前言撤回を申し出ると思っていた、と言う話も北斗の耳に入っていたのだ。
確かに俺は嫉妬した。けれどそれは小泉さんにだ。自分の気持ちに気付いた直後に、その相手からカノジョが出来たと嬉しそうに告げられた時の俺の絶望など、小泉さんには決して理解できないだろう。それでも北斗にとって結果が良ければ、と必死で自分に言い聞かせていたのに。
幸いクラスメイトを初めとした友達は皆、告白された事を黙っていた俺に対する怒りより、アイドル視していた小泉さんに対しての失望と幻滅のほうを強く感じたので、この事件で俺の立場が悪くなることは全く無かった。
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