「菱井に気付かれている、って知った時は正直もう駄目かと思ったんですけど」
試験最終日の放課後、俺は地学準備室で幸崎先生と購買で買ったパンを食べていた。
「あいつは自分で宣言した通り、北斗には何も言っていないみたいで。北斗の俺に対する態度がおかしくなったとかそう言うのは無いです」
確かに、中途入部の話をしてからの北斗は変わった。
母さんの小言を右耳から左耳に流すぐらい勉強嫌いだった北斗が、毎日放課後に試験勉強をしてから帰ってくる、というのもある。一緒にやろうと誘ってあっさり断られ、菱井と勉強するんだと当然のように言い切られた時は、正直凄く複雑だったけれど。
しかし何より違うのは表情や仕草だ。以前より格段に明るくなった。何をしていても楽しそうだ。
「やっぱり、中間が終わったら部活を始める、って言う事が目標になっているからでしょうね、北斗の中で。小学生の頃にプールに行こう、って俺を誘っていた時のあいつに似ている気がする」
何処かに昔の無邪気さがあるのだろうか、北斗は寧ろ以前よりずっと「兄弟」らしく俺に接する。いつもは興味が無いとばかりに逸らされていた視線が、ちゃんと俺と合うのだ。俺達の関係は、どうせ叶わないならばせめてこうでありたい、と俺が願っている方向へと向かっている。
北斗の態度の変化に伴い、俺の感情もだいぶ落ち着きを取り戻してきた。それに、試験が終わってまた星空を眺めることが出来る。
「先生?」
暫くの間俺が一方的に話していたせいで気付くのが遅れたけれど、幸崎先生の顔色は悪いように見える。
「ひょっとして体調が悪いんですか?」
「あ、ああ。大丈夫だよ、南斗君。試験期間中は教師も気を張っているからね、疲れが出たのかもしれない」
「すいません、無理に話を聞いてもらったりして」
先生はそんな事無いよ、と薄く微笑んでくれたけれど、俺は話を切り上げて下校する事にした。
夕方近くになって、駅前の本屋に注文していた天文学の専門書の入荷連絡が一昨日に入っていたことを思い出した。試験期間中だから引き取りは少し遅れる、と伝えてあったけれど、あまり引き延ばすと店に迷惑がかかるだろう。
俺は母さんに外出することを告げ、家を出た。玄関先には未だ北斗の靴が無い。噂によると、一組は文化祭の打ち上げを今日やっているらしい。あいつもそれに参加しているのだろう。昔も大勢での集まりに誘われた場合は「とりあえず」断らなかった北斗だけれど、恐らく今では自分から楽しんでいるのだろう。
受け取った本はずしりと重く、紙袋が破れそうなぐらい分厚い。今夜は遅くまで起きていることになりそうだ。
駅前から家に戻る途中、視界前方にうちの高校の制服を着た二人組の男子生徒がふざけ合っているのが見えた。
こちら側を向いている一人は俺に気付いたらしい。動きを止め俺を凝視している。
「――天宮南斗」
その声は紛れもない、菱井のものだ。そして――北斗も振り返る。
「やあ」
俺は自分の理性の限りを尽くし、二人の前で微笑んでみせた。
「北斗、菱井君、今やっと帰り?」
何をしていたのかと菱井に尋ねると、俺が考えていたとおり、二人は一組の打ち上げに参加してきた帰りのようだった。逆に、北斗に俺の行き先を訊かれたので駅前の本屋に行ってきたと正直に答えた。
「何これ、漫画?」
菱井が断りも無しに紙袋に触る。
まずい、中の本を北斗に知られるわけにはいかない!
「違うよ。理科関係の本」
叫び出したくなるのを何とか押さえ、それだけ言った。幸い、菱井はすぐに紙袋の中身に対する興味を喪ってくれた。
俺は自転車を押して一緒に帰る、と主張し、強引に二人について歩いた。親しくしたいとは全く思わない菱井を含めての会話ともなると、話題は今日終わったばかりの中間試験ぐらいしか無い。
「そう言えば、俺が教えるって言ったけど、北斗は菱井君と勉強するって言ったんだよね。二人でやったらはかどる?」
「図書室追い出されることは無かったから、それなりに真面目に勉強してたと思うよ?」
勉強以外の、例えば人様には言えないような事を二人でされては俺が困る。と言うよりも怒り狂う。
「でも、北斗はあんたに化学教えてもらったって思ってた」
「化学? ――北斗、今回化学良かったの?」
「まぁ、手応えあった、っつぅか」
北斗の口調こそそっけなかったが、くすぐったそうな表情は正直だ。
「さっきこいつ、自己採点して俺に自慢しようって言ってたんだぜ」
「菱井っ!」
「ひょっとして、これからそれをやるつもりだった?」
「ああ、ふ・た・り、でね」
菱井の喋りが挑発するような口調なのは、俺の最大の弱みを握っていると言う自信から、わざとそうしているのだろう。
「……ふぅん」
やっぱり、菱井は物凄く気にくわない。
衝動的に、この場から北斗を連れ去りたくなった。
「北斗」
「な、何」
「自転車で帰ろう」
北斗の手から鞄を奪い、紙袋の上に重ねるようにして自転車の籠に入れる。俺の突然の行動に北斗は抗議したが、俺は暗くなってきたから、と適当な理由をつけた。
これから菱井と自己採点をするのだ、と北斗は助けを求めるかのように菱井を見る。しかし意外にも、菱井は俺に味方した。
「いいよ、今日たっぷり遊んだじゃん。俺も帰るよ」
「北斗、後ろ」
菱井に断られた北斗は渋々、といった感じで荷台にまたがった。俺の肩に手を置き、立とうとする。
「駄目だよ北斗。座らないと危ないよ?」
「えー……」
不満の声を上げながらも、北斗は荷台に座った。腕が俺の腰に回される。
「さようなら、菱井君」
「じゃあな。また教室でな」
「おう」
二人の会話を最後まで聞く気は無くて、俺は自転車を漕ぎ始めた。瞬間、心構えの無かった北斗が俺の腰にしがみつく力を強めた。
二人乗りの必然とはいえ俺は北斗に抱きしめられているわけで、とてつもない幸福感が腰から全身へと広がっていく。
北斗はどんどん距離の開いていく菱井と何か叫び合っていたけれど、もう俺には全然気にならなくなっていた。
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