「北斗。夕飯できたって」
「――ああ」
俺が廊下から声を掛け、北斗が返事をしてドアを開けるまでの短い時間、いつも酷く緊張する。あの日のように、何度呼んでも決して出てこないんじゃないかと言う不安に駆られる。
北斗はあれ以来、家族との交流を極端に避けるようになった。家にいるときは殆ど部屋に閉じこもり話しかけても返事をしない、とりつく島もない態度の北斗に対し、両親はどう接して良いのか解らずに諦めてしまった。少なくとも俺には、そう見えた。
家での様子と反比例するかのように、家の外での北斗は中間試験以前と比べてとても活発になった。バイトを始め、校内で俺が見かける限りではいつも菱井や他の友人らと楽しそうに笑い合っている。その表情はまるで、小学生に戻ったかのようだった。
「ねえ、北斗」
「後にして」
ドアが開いた事に安堵し、俺は北斗に話しかけようとする。しかし北斗はそれをにべもなくはね除けた。
天文部の件を改めて謝罪して、再び元の「兄弟」の関係に戻るまでは、俺は北斗と会話することを諦めるわけにはいかない。けれど今のところ、努力は全て空振りに終わっていた。
「あー、期末って中間より試験科目数多くて嫌になるよな」
伊勢原が試験の日程表をひらひらと振る。
「天宮。テストのヤマ教えてくれよ」
「伊勢原が自分でちゃんとテスト範囲をさらってからならね」
俺はいつも通りに計算した苦笑を浮かべながら、伊勢原をあしらった。
「いつも言っているけど、解らないところの解説だったらいつでも請け負うよ?」
――本当なら、俺の精神状態はこうやって笑顔でいられるようなものでは無い。
自分の想いを自覚して以来、北斗から拒絶されるのは俺が最も恐れていた事だった。実際にそうされるたび、心臓が直に、少しずつ抉り取られるかのような痛みを心が感じる。なのに俺の仮面は自分でも嫌になるぐらい優秀で、俺の異変を周囲に絶対に悟られないよう、自然と普段通りに、いやそれ以上に愛想良く振る舞ってしまう。
あいつに責められた通り、俺が天文部を創った理由は絶対に言えない。同じように、俺の心が刻一刻と消耗している事とその原因は誰にも知られるわけにはいかないのだ。
以前の俺ならば、幸崎先生に話す事でやり場のない焦燥を少しでも減らそうとしただろう。しかし、酒谷の部活動参加率が上がったのもあるが、何よりも先生は俺と北斗それぞれの共犯者だったのだ。相談する気にはどうしても、なれなかった。
そして再び一人で全てを抱え込みながら、俺は皆の前で笑顔で居続けた。
期末試験は「いつも通り」で臨んだ。心は殆どぼろぼろの俺自身を隠蔽するためには、成績も維持する必要があったのだ。
期末の成績が発表される日、順位表が張り出されている掲示板に向かう途中で、酒谷が「一緒に見に行こう」と声を掛けてきた。
「今回の試験、手ごたえは?」
「きちんと勉強した分に関しては自信があるよ」
「天宮らしい言い方だね。どうせまたトップなんじゃない?」
俺は褒められた際に浮かべる、謙遜交じりの曖昧な笑みを酒谷に向けた。
北斗に殴られた直後の俺を目撃して以来、酒谷は事ある毎に俺を心配してくれている。俺と北斗が和解できていないことを彼は知っているからだろう。
酒谷は言動こそ辛辣で不機嫌そうだが、困っている人間を放っておけない性格だ。けれど相手が踏み込まれたくない部分に関しては、最大限に尊重してくれる。酒谷のそう言うところが、今の俺には有難かった。
校内で最も大きい掲示板がある購買前は、順位表を見に来た生徒でごった返していた。
「おい、書記の天宮だぞ」
誰かが言った途端、視線が俺達に集まる。しかし、いつもと雰囲気が違った。
「天宮。お前、何か言われてるみたいだけど」
確かに、周囲は俺達の顔色を伺いながら噂をしている、と言った感じだ。敢えて気にしないよう、順位表を見上げる。
俺の名前は紙の一番右側に書かれていた。最悪の精神状態で受けた試験だったにも関わらず、一位を取れたことに安堵する。
視線が左にずれた時、もう一つ「天宮」と言う姓が視界に入った。そして視線を下に降ろすと、北斗が菱井達と一緒に、そこにいた。
北斗の側に近付き、順位表を再度確認する。
「五位――凄いね、北斗」
「……」
北斗は黙ったままで、この先どうやって会話を繋げれば良いのか、俺も判らなくなる。
北斗の成績はいつも集団の真ん中ぐらいで、今回が間違いなく過去最高の結果だ。きっと凄く勉強したんだろう、と思うと俺も嬉しくなる。けれど、それが北斗自身を認めさせるための努力なら、俺が目の前で軽々しく喜ぶ事なんて出来ない。
俺達を囲む人垣から、やがてひそひそとした話し声が聞こえ始めた。俺への注目は北斗へのそれと絡んでいたのだと俺は悟った。お互い何も言えないでいる今の俺達は、周囲から見れば明らかに険悪だ。
「天宮――そう、天宮北斗のほう。ちょっと一緒に来い」
突然、険を含んだ呼び声が北斗に掛けられた。声の主、政経の鎌仲先生は生徒達の間ではかなり評判が良くない。授業などでの経験から反抗的な態度を取るのはまずい、と解っているのだろう、北斗は大人しく鎌仲先生の後について掲示板の前から立ち去った。
――酷く胸騒ぎがする。
「酒谷。俺、職員室に行く」
「ひょっとして鎌仲先生?」
酒谷の問いに対し、俺は頷いた。
「北斗の成績が今回急上昇したから。先生はあいつに、カンニングをしたとか言いがかりをつける気かもしれない」
「ああ、あの教師って生徒に難癖つけるの大好きだしね。でもお前の兄、そう言うことやる人間じゃないんだろ?」
なら見過ごせないよ、と酒谷は俺と一緒に職員室へ行く、と申し出てくれた。
「――俺がカンニングしたって言うんですか?」
俺達二人が職員室に踏み込んだのは、北斗が鎌仲先生に対して抗議しているところだった。
「そうでもなけりゃ考えられんだろう。今まで平均すれすれだったのがいきなり五番以内だなんて、疑ってくれと言ってるようなもんだ。正直に言えば渡しの胸三寸に納めて、大事にはしないでおいてやる」
先生の言い分は、北斗に対する酷い侮辱だ。思わず俺は声を荒げた。
「鎌仲先生。一体北斗に何をやっているんですか!?」
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