「やぁ……っ、助けて……助け……て」
掠れた声が堰を切ったのだろう、北斗の眼から一気に涙が溢れた。
「っく……怖いよ……来て、くれよ」
俺から逃れようともがきながら、北斗は必死に腕を伸ばす。その先には何も無い。俺は北斗の声を息ごと塞ぐため、北斗と向き合った。
泣きじゃくる北斗と視線が――合わない。
「早く……助け……来、て、……助、けて……ぇっ――南、斗……南斗、やだ、嫌だ――南斗、たすけて、なんと……こわい、嫌、来……て、たすけ、て、南斗、なんと――なんとぉっ……!」
北斗は無我夢中で助けを呼んだ。今ここにいる俺ではない、俺を。
肩を押さえ込む俺に恐怖し、視線は俺の背中の向こう側を必死に探って。
そして震える声で言った――なっちゃん、と。二人で一人という認識が当たり前だった頃、北斗が俺を呼ぶ愛称だった。
哂う俺の仮面が、たった一言で崩壊する。
北斗にとっての「南斗」は、完璧に作り上げた仮面を被る俺じゃない。
あの壁で隔てられる前、並んで眠りじゃれあった頃の俺なのだ。
「違……本当は、こんな……こと、したい……わけじゃ……」
『すげぇなあ、南斗』
ただその一言が欲しくて、いつも楽しいことで輝いてる目で見て欲しくて――北斗にとっての南極星になりたかった。その為に費やしたこの数年は全部、全部無駄だったと言うのか。
視界はいつの間にか歪んでいた。
傷つけたいわけじゃないのに、いつも逆のことしか出来ない。星を代わりに追いかけていられれば、それで十分だったはずなのに。
俺は上半身を起こし、手で顔を覆った。掌から腕を涙が伝う。止まらない。流れ続ける。
もう限界なんだ。止まらない、自分を抑えられない。
俺はどうして好きになってしまったのだろう、傷つける事しか出来ないのに。今も最後に残された信頼を踏みにじっているのに。
それでも、俺は、
「好き……北斗、だけ……ず……っと、好……だっ、た」
止められなかった涙が枯れてしまうと、俺はようやく北斗の上から降りた。俺の体重を掛けられ続けた北斗は身動きすらままならず、俺は北斗を抱き起こそうとした。しかし北斗の身体は拒絶で震え、俺は差し出した手を引っ込めるしかなかった。
「怖い思いさせて、ごめん。いくら謝っても赦されることじゃないけど――ごめん」
北斗は床に寝そべったまま、虚ろな目をこちらに向けている。
もう二度と、北斗は輝く瞳で俺を見てはくれないだろう。それだけの事を俺はした。
「忘れなくてもいい。無かったことにして欲しいなんて言わない。むしろ俺を軽蔑して、思い切り憎んで欲しい」
「南斗……?」
「北斗が嫌がるようなこと、二度としない。もう近寄らないようにするから」
立ち上がらなければ、俺はまた涙に溺れてしまいそうだった。
これで望みを絶つのなら、今言いたいことを全て言おう。
「さっき言ったのは全部本当のことだよ。多分、中学に入る前からずっと本気だった」
ドアに手をかけながら、俺は最後に北斗を振り返る。今度は視線がちゃんと合い、俺の表情は奇妙に歪んだ。
「だから北斗、ちゃんと言わせて――『さよなら』」
まだ明けやらぬうちに俺は家を出た。荷物は事前にまとめてあったから、後は両親にメモを残すだけだった。
北斗が望んだ「南斗」でも仮面を被った「優等生」でもない俺には、あれ以上家に留まる事など不可能だった。
そしてそのまま、合宿の集合場所である駅前広場へと向かう。ベンチに座り、街頭の明かりの下で家から持ち出した小さいアルバムを開いた。
中身は全て北斗の写真――物心が付いたあたりからつい最近に至るまで、様々な年齢の北斗の一瞬が切り取られ納められている。家族のアルバムなんて一旦片付けてしまえば見返す事なんて殆ど無いからと、俺は時々家族の目を盗んで写りの良い写真を抜き取っていた。中には、学校行事で撮影されたものを密かに購入したものもある。
両親ですらどちらが写っているのか判らないような写真でも、不思議と俺は自分と北斗とを確実に見分けられた。
皮肉な話ではある。何もかも同一でありたかった俺自身が誰よりも、俺と北斗が別人であることを認識出来ているのだから。しかしそれは逆説的に、俺が愛しているのは俺を構成する遺伝子を持つ人間ではなく北斗自身である事を表しているのだとも思う。
一人きりの部屋で秘密のアルバムを開くたび、俺はただ胸を熱くするだけだった。けれど今見返すと、一枚一枚が俺を責め苛む。
子供の頃は輝いていた北斗の表情が、中学入学以降は次第に色褪せていっているのが判る。高校の入学式の朝、自宅前で撮られた写真の北斗からは、高校生活に対する希望も何も感じられなかった。まるで周囲の全てに対する興味を喪くしたかのような顔をしていた。
両親からの関心、友達と遊ぶ楽しい時間や恋愛――そんなごく当たり前のものを取り上げる権利など、誰にあると言うのだろう。それらを持たない人間が幸福だと言えるのか。
俺は、奪った。北斗から北斗を幸せにするための要素を、俺の身勝手な理由で排除した。そしてついさっき、北斗自身の尊厳をも粉々に破壊しようとしたのだ。俺という存在そのものが、北斗から幸せを奪っているのだと痛感した。
好きな相手を不幸にしたい人間なんて、いない。俺は北斗に幸せになる権利を返さなければならない。
俺はきっと北斗以外の人間を好きにはなれない。ましてやこの想いを自分で止めることなど到底出来そうになかった。
俺は携帯電話を上着のポケットから出した。
「南斗君!」
電話で無理に起こしてしまったにもかかわらず、幸崎先生は集合時間の一時間前に来てくれた。
「冷たい……君は何時間独りでここにいたのかい!?」
俺の頬に手を触れ、幸崎先生は眉をひそめた。
先生はいつも労るような眼差しで見てくれる。俺にそんな資格なんて無いのかもしれないけれど、どうしてもこの人に懺悔したかった。
「先生。俺の話を聞いてください――俺、北斗に取り返しの付かないことを、北斗をレイプしようとしました」
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