「――車に行こう」
審判を待つ俺に、幸崎先生はそう提案した。既に電車は動いており、まばらではあるが通行人もいる。確かに、ここで続けて良いはずが無かった。
先生は、乗ってきたワゴンの後部座席へと俺を誘った。夏合宿の時も同じレンタカーだったな、と俺は全く関係ないことを考えた。
車内で先生は、俺から話し始めるまで何も言わなかった。暫く沈黙が続いたが、やがて俺は淡々と昨日からの出来事を語った。自分でも意外なほど冷めた口調だった。数時間前まで俺を焼き焦がしていた何かが、冬の夜の冷気によって凍り付いてしまったのかもしれない。
全てを話し終えると、俺は再び幸崎先生と向き合った。
――先生は、平手で俺の頬を打った。
「狭いし、これ以上は他の皆に気付かれるからね」
本来はもっと力を込めて殴るつもりだった事を、幸崎先生は言外に仄めかした。しかし他人に手を上げるという行為から最も遠いところにいる先生にとって、この程度でも異例の行動だろう。
「ありがとう、ございます」
俺の口からは自然と感謝の言葉が出た。手加減してくれた事に対してではない。俺自身が俺を否定するために必要な事を、先生がしてくれたからだ。
「自販機で何か温かいものを買ってくるよ」
先生は再びあの穏やかな眼差しになり、何が良いかと俺に尋ねた。
「コーヒー、ブラックでお願いします」
「わかった」
残された俺はただぼんやりとしていた。視線を泳がせると、バックミラーに映った俺と目が合った。
今後は鏡を覗き込むことも辛くなるだろう。あの朝以来、鏡に映る俺の顔は北斗のそれの代わりだった。同じでありながら、異なる。それが解っているからこその「代用品」。
客観的な画像や映像とは違い、主観と願望の働く鏡像は俺の知覚を曖昧にする。北斗には決して見せてもらえない表情を、俺は幾度となく鏡の向こう側に求めてきた。
緊張が解けたせいなのか、瞼が急激に重くなった。先生が戻ってくるのを待たずに俺は意識を手放した。
『助、けて……ぇっ――南、斗……南斗』
「――っ!!」
「あ。やっと起きたー」
気が付いた時、目の前に山口先輩の顔があった。
「おはよー天宮君。気分どう?」
「あまり良くないです」
本当だった。動悸は未だ激しく、額にかいた汗が不快に感じられる。
「爆睡しすぎると気持ち悪くなるよね」
「爆、って言うより明らかにうなされてましたけどね、天宮は」
酒谷は山口先輩の更に向こうに座っていた。小野寺先輩は助手席のようだ――今更ながら、この車は既に走行している事に気付く。
「来たらお前はもう車にいるって聞いて、びっくりしたよ。待ち合わせ時間間違えたんじゃないの?」
酒谷の言葉に、俺は微笑してみせるしかなかった。そしていつものようには上手くいかなかった。
「天宮に」
小野寺先輩から山口先輩を経由し、渡されたのは平温に戻ってしまったコーヒー缶だった。車窓にもたれた体勢のまま、それを片手で握り締めるだけの俺の顔を山口先輩が再び覗き込んでくる。
「飲まないの? 口移ししてあげよっか?」
「郁美」
「やだぁー優ちゃん、普通に冗談じゃない」
「副会長って本気かそうじゃないか解んない人ですからね……」
「山口さん。この車はレンタカーだからね、くれぐれも汚さないようにね」
口移し、唇――柔らかい、甘い……。
自分の唇の端を舐めた次の瞬間、俺は身体を震わせ跳ね起きた。
「ははっ、よく来たな――酒谷君だっけ? 相変わらずだな、ちゃんと食ってるか?」
俺達が滞在するペンションのオーナーは、笑いながら酒谷の頭をくしゃくしゃと撫でた。小野寺先輩と同じぐらい背が高いその人は、酒谷とは三十センチは身長差があるだろう。小柄なことを気にしている酒谷だが、眉をしかめる程度で我慢していた。
「今回も、忙しい時期に無理を言ってごめんね」
「なぁに、気にするな。隆の教え子達なんだから」
オーナーは、幸崎先生のお兄さんだ。線の細い先生とは対照的にオーナーは体格が良い。けれど、笑顔をつくる時の目がよく似ていた。
二人の間に流れるのは、仲の良い「兄弟」同士の気安い雰囲――その事に俺の胸はずくん、と痛んだ。
山口先輩は荷物を解くのもそこそこにスキー場へと行ってしまった。先輩はどうしてもスキーがしたいから、と合宿の日程を無理矢理延長させたのだが、今となってはあの人に感謝するほかない。家に戻ってその後どうすれば良いのかなんて、未だ到底考えつかない。
「天宮、これからどうする?」
酒谷の問いかけを最初取り違え、俺は危うく狼狽するところだった。
「すぐに遊び回れるなんて、副会長のあの体力はどこから来てるんだろう? 部活動は夜からだって言うのに」
「ああ……観測に備えて一眠りしておいたほうが良いかな?」
「天宮は車でさんざん寝ていたじゃないか。まぁ、僕はそうさせてもらうけど」
そう言って酒谷はベッドに潜り込んだ。俺も彼に倣う。
肌が布団を滑るときの感触が、やけに鮮烈だった。そして甦るのは、俺と同じ組成の肌の柔さ。
俺は再び俺を、自分ではないものとすり替える。しかし、いつもとは違った。何故ならもう、知っているから。あいつの皮膚の滑らかさ、肋のラインの固さ、そして熱。俺は指で唇で、その全てを貪ろうとして――。
欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。
本物に触れてしまった以上、代用品では耐えられない。
いけない、解っている、でも欲求は理性を振り切り、駆け上がる。
俺は、何を……!?
北斗と「兄弟」でいる望みさえ手放すと決めたのは、未だ昨夜の事だった筈だ。今だけじゃない、車内でも俺は無理矢理キスした北斗の唇を思い出していた。
このままではきっと――俺のたがはまた、弾け飛ぶ。
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