INTEGRAL INFINITY : doublestars

「このまま家に帰るの? 天宮」
 駅まで送ってくれた幸崎先生を見送った後、酒谷が言った。
「うん、帰るよ」
「本当に?」
「だってこの荷物だよ?」
 酒谷はまだ半信半疑のようだったけれど、それ以上追求はしてこなかった。
 そして俺は酒谷と別れた後、恐らく彼が予測していたとおり真っ直ぐ家には帰らず、駅前のネットカフェで夜遅くなるまで過ごした。

「ただいま」
「南斗! 遅かったわね」
 俺は、高速が渋滞していたんだ、と母さんに嘘を吐いた。
「晩御飯は? いちおう用意してあるけど」
「駅前で食べてきた。それ、連絡しておけばよかったね」
「そうよ、いくら携帯にかけても繋がらないんだもの」
 俺の携帯は、電源が切られたままズボンのポケットに入っている。
「北斗、ずっと待ってたわよ」
「えっ?」
「朝、起きてきてからあの子ずっとリビングにいたの。待ちくたびれたのか今はソファで寝てるわ」
――心臓が早鐘を打つ。
 リビングに視線を向けると、確かにソファの肘置きを枕代わりにしている北斗の髪が覗いていた。
 起こせば、と言う母さんに、俺は首を横に振った。
「いいよ、寝かせといてあげて」
「北斗、このまま朝までリビングかしらね。明日から学校なのに」
「でも始業式だけだから」
「――大晦日にね、私とお父さんとで北斗と話をしたの」
 母さんは真剣な顔で、俺の目を覗き込んでいる。
「私達はあなた達二人の事を平等に見ているつもりだったけど、結局のところあなたを通してでしか見てなかったの」
 親失格ね、と自嘲する母さんに、俺はもう少しで言いそうになった。
 両親がそうするよう仕向けたのは、俺だ。
「私達もあの子もまだぎこちないけど、お互いちゃんと向き合えるようになりたいわ」
 北斗は、自分に権利があるはずのものを取り戻しつつあるようだった。ここ数日の北斗は時折子供がえりしたように見えた、と言う母さんの言葉は俺に重く圧し掛かった。

「あとは、南斗と北斗ね。北斗にはきっと、あなたに沢山言いたい事があるはずよ。南斗が休み中帰ってこないって聞いて凄く残念がってたから」
 本当にそうだろうか。いや、絶対に違うはずだ。

 母さんは知らない。
 あいつにとって俺は略奪者、そして未遂とはいえ陵辱者でしかない。
 北斗がイメージとして抱いている双子の弟は、もういない。仮面で隠していたものを見てしまった今では、北斗は俺のことを化け物に等しいと思っていてもおかしくないのだ。

 先に寝るわね、と母さんはリビングから出て行った。
 俺と、ソファで眠る北斗だけが取り残される。

 強烈な既視感が、俺を北斗の元へと引き寄せる。

 恐らく母さんの配慮だろう、北斗の身体には毛布がかかっていた。顔は天井を向いており、目を閉じほんの僅かに唇の開いた寝顔は年齢よりもいとけなくすら見える。
 あの時も――今のように俺はソファの側に膝をつき、絶望に近い想いで北斗にキスしたのだ。
 けれど思い出すのは掠めるようなそれではなく、床に押さえつけた北斗から無理矢理奪った濡れた熱だけだった。
 もう一度触れたくてたまらない。このまま抱きしめる事が出来たならどんなに幸せだろう。
 どんなに望んでも――絶対に許されない。もしキスしてしまえば、きっと北斗はあの時と同じように目を覚ます。そして嫌がることは二度としない、と言う誓いを破った俺を罵倒するか、あるいは軽蔑の眼差しで睨みつけるだろう。その両方かもしれない。

 それとも、北斗はまた泣きながら助けを呼ぶのだろうか。

 ベッドに入っても寝付けず、始終寝返りを打ちながら俺は時間が過ぎてゆくのをただ待っていた。
 二週間ぶりに見た北斗の姿がまるで猛毒のような迅速さで全身を廻っている。息が詰まるほどの恋しさに、遂に耐えきれずに俺は起き上がった。後回しにしていた荷解きでもすれば気を逸らすことが出来るかもしれない。
 鞄の中身を取り出している最中、部屋の外側で人の気配を感じた。
「南斗。起きてる?」
 ノックとともに聞こえてきたのは北斗の声だ。
「おい、南斗。南斗ってば!」
 俺は北斗からの呼びかけをやり過ごそうと必死で息を潜めた。真夜中という点を気にしてか、北斗は早くに諦めて自分の部屋に入ったようだった。
 北斗なら次はどう動くか――俺は即座に対応を考え始めた。

 始業式の日、俺は早朝に家を出て学校に向かった。入れ違いで起きてきた母さんには生徒会の仕事があると誤魔化した。
 母さんは昨日の今日で疲れているんじゃ、と心配していたが、実際昨夜は殆ど眠る事が出来ず、頭も身体も重かった。
 職員室から鍵を持ち出し、生徒会室でほんの僅かの時間、仮眠を取った。かつては何のためにあるんだろう、と思っていたソファに初めて感謝した。

 自分で思っていた以上に疲労が溜まっていたのだろう、危うく寝過ごしかけた俺は慌てて教室に向かう羽目になった。
 八組の教室の前に差し掛かったところ、前方から思いがけない人物が近づいてきた。
「ラッキー、我ながらグッドタイミング!」
――声を上げたのは菱井だ。後ろ手で北斗を引っ張っている。
「あ……なん、と」
 北斗は表情を強張らせながら俺を見た。
 不安そうな、困惑しきった目だ。それでも前に北斗と視線が合ったのは遠い昔のことのような気がする。
 俺は表情を殺し、北斗に一言も声をかけずに教室に入った。北斗はそれ以上追ってこなかった。

「天宮、久しぶり」
「おはよう大木」
 俺は久しぶりに表情に笑顔を貼り付け、クラスメイト達と挨拶した。嫌になるぐらい、自然に。
「さっきのアレ、何? また揉めてるのか?」
 大木は、さっきの俺と北斗との事を訊いてきた。気がつけば幾つかの視線が俺に向いている。
「いや、特に何でもないよ」
 俺は努めて明るく言ったが、大木も他の連中もどうやら信じていないようだった。
 俺達兄弟の仲が悪い、という噂が再び校内じゅうに広まるのも、きっと時間の問題だろう。

 

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 高校時代、職員室の鍵すら開いていない時間に登校したときは、一カ所だけ鍵を掛けていない廊下側の窓から教室内に侵入していました。それでやることはホームルームが始まるまでただ寝るだけ、と言う、非常に情けなくも恥ずかしい思い出です。