【逃亡編 その2】
2006.07.02 13:15
「ただいま。はい、米」
「ありがとう、助かったわ」
持つべきは男の子よね、なんて母さんは調子の良いことを言っている。
「あれ、北斗は二階あがった?」
俺が出掛ける前は、リビングのソファの上で昼寝の臨戦体勢に入っていたはずだ。
「あの子なら出掛けたわよ」
「そう」
コンビニにアイスでも買いに行ったんだろうか、って思って自分の部屋に戻ると、机の上に一枚の紙切れが置いてあった。
『実家に帰らせていただきます』
「……は!?」
2006.07.03 08:00
実家に帰るって何処に?
俺たちの育った家って間違いなくここだよ?
そもそもこの台詞ってどういう時に使うんだっけ?
「確か妻が夫に愛想尽かして出てくときの――えぇ!?」
よく見ると、紙の端には追伸が書いてあった。
『連絡網爆撃しても、今回も無駄だから』
文面が示す「前回」は、きっと北斗が最初に天文部に入ろうとした日の事だ。
つまり――この置き手紙は、かなり本気だ、ってことだ!
「母さん、母さんっ!」
「南斗が慌てて降りてくるなんて珍しいわね。足音が響くからやめなさい」
「それよりも、北斗は本当は何処行った!?」
母さんはしばらく迷ったけど、俺の顔がよほど鬼気迫ってたらしくて、教えてくれた。
「あの子、今日はお友達の家で、二人で勉強会するんですって。帰ってくるのは明日よ」
「それって誰!? 菱井君?」
「確か違ったけど、ごめんなさい、はっきり憶えてないわ」
「そう……」
北斗の行き先は菱井の家じゃないらしいけど、北斗が俺に内緒で何かするときにはほぼ必ずあいつが関与している。少しでも情報が欲しい俺は、菱井に電話を掛けた。
「もしもし、菱井君?」
『あー、やっぱ掛けてきたな天宮南斗』
「……その言い方だと、何か知ってるみたいだね」
『いや、北斗はここにはいねーよ。けど試験中、実家に帰らせていただきます、って言いてー、ってしょっちゅうこぼしてたし』
「それ本当!? 何で!?」
『そりゃ俺にもわかんねーって――あっ!』
『天宮。あまりこっちの邪魔をするな』
「何だ、小野寺先輩そこにいらっしゃってたんですか。では言われたとおり俺は退散します」
携帯の通話を切った俺は、頭を抱えてその場に座り込んだ。
2006.07.03 20:04
「南斗。ご飯よ?」
「あんまり食べたくない……」
「駄目よ、ちゃんと食べないと! ……あなた達ね、最近すっかり子供に戻っちゃったわね」
思わず顔を上げると、母さんと目が合った。呆れてるような、けど優しい表情。
「どうせまた北斗と喧嘩でもしたんでしょう? ちっちゃい頃は喧嘩の後はいつも北斗が何処かに隠れて、南斗は『ほっくんがきえちゃった』って泣くのね。それで、おやつもご飯もいらない、ってわがまま言って拗ねて、北斗が呼びにくるまでソファの上でまるまってるの。憶えてない?」
さすがに北斗の隠れ方も巧妙になってきたけどね、と母さんは笑った。
「時々あなたのほうが隠れても、北斗はすぐに見つけて怒るの」
――確かに母さんの言うとおりだ。俺達は全然変わってない。
けど、今の喧嘩の理由だけは母さんにも判らないだろうな。
というか、これって喧嘩なんだろうか。もっと深刻な事態じゃないのか?
2006.07.04 07:51
夕飯の後、俺は何をする気力も湧かなくて、ベッドの上に転がって天井を見上げていた。
いつ北斗から連絡が来ても良いように横に置いてある、携帯が鳴った。
慌ててディスプレイを確認する――なんだ、酒谷か……。
「もしもし酒谷? ごめん、今日ちょっと会話する気力が――」
『ミナミヤがお捜しの奴は、今僕の隣で爆睡してるよ』
何だって?
「ほっ、北斗お前の家にいるの!? すぐにそっち行くから!」
『馬鹿。もうとっくに終電過ぎてるよ。ここ僕の家じゃなくて、伯父さんの部屋一晩借りてるから』
酒谷が最寄りの駅を言う。確かに、夜中に簡単に行ける距離じゃなかった。
そこは海に近い場所だ。
『キタミヤ、お前に邪魔されないで一人でぼんやり海に浸かりたかったんだってさ――なぁミナミヤ。お前がキタミヤの事が好きで好きで仕方ないのも、今はやりたい盛りのお年頃なのも理解できるけどさ。それ、一方的に押しつけるのはどうかと思うよ』
北斗が、自分は都合の良い人形じゃないって呟いた事を聞いて、目眩がした。
「俺、俺そんなつもりじゃ……」
『いつも流されるままのキタミヤもどうかと思うけど、あっちの方が負担掛かるんだし、ミナミヤが思いやってやんないと擦り切れるよ、キタミヤは』
そこに優しく付け込む奴が現れたらあっと言う間に盗られるぞ、と酒谷に脅された。心当たりがあるだけに、真実味を持って響く。
俺がそうなるように仕向けてしまったせいで、思われることに飢えている北斗は他人からの好意にとても弱い。菱井が親友止まりだったのは、本当に奇跡としか言いようがない。もっともあいつには先輩がいたんだけれど。
『僕も全部聞いたわけじゃないし、とにかく一度、二人でちゃんと話し合いなよ、振られたくないならな』
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