周囲に人気の無いところまで菱井を誘導すると、山口は突然振り返り、小脇に抱えていた薄い書類封筒を彼に突き出した。
「良介ちゃん。これ、優ちゃんの忘れものなの。優ちゃんちまで届けてくれない?」
「はい?」
何で小野寺は学校にいないのか、と菱井は疑ったが、今日は二年のみ授業が五限で終わる日である事を思い出す。
「いやいや、それ俺呼び出すような事じゃねーだろ。郁姉が行けば済む話じゃん」
「それがねぇ、あたしまだ学校から出られないの」
「……居残り?」
「違うわよぅ、失礼ね良介ちゃん」
部活よ部活、と山口は頬を膨らませた。
「だったら天宮南斗か酒谷に頼めよ」
「ところがあの二人も部活で遅くなるのよねぇ」
芝居がかった仕草で山口は小首をかしげる。山口や酒谷、そして南斗まで部活動をしているとは、菱井には初耳だった。普段の彼ならば、その噂すら流れていない事を不審に思っただろう。しかし山口に目の前で「小野寺の家に行け」と強制されている状況では、そこまで頭が回らなかった。
「それホントに今日中に届けなきゃなんねーのかよ」
「うん、明日が提出締め切りだから」
山口が言うには、封筒の中身は親の同意が必要な書類であり、多忙な両親が自宅にいる事が少ないためか、小野寺にしては珍しく提出を伸ばし伸ばしにしていたらしい。
「だから、無いことに気づいたら優ちゃん学校まで取りに戻るんじゃないかなぁ」
だったら取りに来させろよ、と菱井は密かに毒づく。しかし、その手間をかけさせるには忍びない、という山口の思いやりなのだろう、と考え直した。
(郁姉にしちゃ、珍しく気がきいてんなー……でも俺に押し付けんなよ)
そう思っても、「この書類が無いと小野寺が困る」と刷り込まれた時点で、既に菱井自身が放っておけない気持ちになってしまっている。
「……俺、今の優んち知らねーんだけど」
「そう思って簡単な地図、書いといたのよ」
追加で手渡された紙には、小野寺の自宅までの地図と可愛らしい丸文字による住所が書かれていた。
「じゃあヨロシクね、良介ちゃん♪」
菱井が場所を確認している隙に、山口はその場から立ち去ってしまう。
「え!? ちょ、郁姉!」
残された菱井は、地図に視線を落として溜息をついた。
「なんで交通費が自腹なんだ?」
あまりの理不尽さに、吊革を握る菱井の手に力がこもる。
小野寺の住むマンションは、菱井の自宅や惣稜高校の最寄り駅から一駅離れた場所にあるらしい。歩いて学校まで通っている菱井は当然、定期券など持っているはずがなく、北斗への奢りがかさんで軽くなった財布から切符代を出す羽目になった。後で山口に請求しても、間違いなくかわされてしまうだろう。
電車を降りてからは地図を頼りに歩くのだが、意外にも山口はとても判りやすく描いてくれており、迷うことは全く無かった。
それでも、目的のマンションの前に立った時、菱井は「本当にここで良いのか?」と自分の目を疑ったのだ。
どこからどう見ても、「高級マンション」や「億ション」と言う名前が似合いそうな建築物だった。
(なんか、こーゆーホテル普通にありそーだよ)
高級な雰囲気とはどうもそぐわない自分が建物の中に入って良いものか、と菱井はガラスの自動ドアの前で躊躇した。その向こう側には更にもう一枚、固く閉ざされたオートロック式のドアが見える。
菱井は意を決して一枚目のドアの前に立った。後はインターフォンのテンキーを操作し、小野寺の部屋を呼び出すだけだ。
いよいよ「呼び出し」のキーを菱井が押そうとしたちょうどその時、内側からドアが開く。
「良介?」
出てきた小野寺が、訝しげな声で菱井に声をかけた。
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