かつて同じような事があった気がする。
自分はベッドに寝たまま動けない状態で、誰かが顔を覗き込んでいた。
菱井は肩に回された小野寺の腕をそっと外した。端正すぎる寝顔を目の当たりすると、自分の中の大きな何かがごっそりと抜け落ちたような気分になる。
だが、感傷に浸るよりも今の菱井が優先しなければならないのは、北斗が起きる前にリビングに戻る事だ。
「いっ……!」
動こうとすると身体の奥が重く痛む。それでも、菱井は何とか床に下りると脱がされた服を再び身に着けた。足腰はふらつくが、それでも慎重に歩を進めれば移動は出来る。
やっとの事でリビングに辿り着き、ソファに倒れるようにして横たわると、遂に菱井の力は尽きた。反動でバランスを崩し全身がソファからずり落ちても、もはや指の一本すら動かす気にはなれず、床の上で目を閉じた。
そのまま暫く休めれば良かったのだが、じきに向かいのソファで寝ていた北斗が起き上がってしまった。昨晩ぐっすりと眠ったおかげで自然に目が覚めたのだろう。
「菱井。朝だぞ」
北斗は菱井に近づくと、掌で軽く菱井を押した。たったそれだけの刺激でも今の菱井には辛い。逃れようと身体を起こし、立ち上がりかけてまた痛みが襲う。
「腰、痛ぇ……」
思わず口走ってしまい、菱井の顔から血の気が失せた。
「ソファから落ちたからか?」
「多分。その時腰捻ったのかも」
菱井はとっさに肯定した。
菱井が小野寺と寝た事は、北斗にだけは絶対に知られてはならない。
男としてのプライドが問題なのではない。きっと北斗は自分を責めるだろう――彼がたった一晩逃避する場所を確保するためだけに、親友が男に抱かれたのだと知れば。これまで軽く「身体で払う」という言葉が交わされてきたが、昨夜の事は言葉通りの「身売り」だ。
菱井は自分の選択に後悔はしていない。もっとも、予想より衝撃的ではあったが。だから菱井が勝手にした事に対して、北斗が負い目を感じる必要は無いのだ。
「ある意味器用すぎ。せいぜい3、40cm程度だろこの高さ」
北斗は苦笑し、菱井に手を差し伸べた。その腕に縋り付き、菱井は思う。
(ちゃんと普通にしてねーと、北斗に変だって思われる。どんなにカラダ辛くたって、普通の顔して真っ直ぐ歩かなきゃなんねーんだ)
菱井にとって一世一代の演技の始まりだった。
「おはよう。良介、天宮」
「おはようございます、会長」
現れた小野寺は既に制服を着ていた。彼の腕から抜け出すときに見た髪の毛の乱れも見あたらない。
(何でそんなに涼しー顔してんだよ。あの時は……あの時は、あんな)
まるで獲物に食らいつく獣のような、獰猛な瞳。荒い息づかい。
上手く思考すら出来なかった夜の記憶で最も鮮明に残っているのに、今の小野寺からは微塵も感じ取れない。
もちろん、小野寺に態度を変えられれば困るのは菱井の方である。しかし、今更感じ始めた羞恥が、湧き上がる側から憤りへと転化されるのだ。
二人きりなら遠慮無く小野寺を詰っただろうが、この場には北斗がいるためそれは無理だ。菱井は渋面を作るだけで我慢しなければならなかった。
(ってゆーか、何で俺一人だけそんな事考えなきゃなんねーんだ!? 何かすげー負けた気分になってきちまうじゃねーか!)
これはもう、菱井の性格というか、長年培われた小野寺に対する条件反射的な思考回路だろう。
小野寺が朝食を用意すると言い出した時も、菱井はひたすら怒りを飲み込み黙りこくっていた。
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