「メシは?」
「当然食ってきてるって」
「まだ腹に入るか?」
そう言いながらキッチンから出てきた小野寺の手には、一目でそれと判る洋菓子店の箱があった。
「何、それ」
小野寺は菱井の問いには答えず、テーブルの上で箱を開けた。中から出てきたのは小さめのブッシュ・ド・ノエルだ。
「お前、これが食べたいと駄々を捏ねていた事があったな」
――確かに、そんな思い出が菱井にはあった。菱井家ではイベント事のケーキはイチゴショートと決まっていて、あるとき「いつものは飽きたから他のケーキがいい」とケーキ屋の店先で喚いてみた事があった。菱井の母は息子を軽くあしらい、例年通りのケーキを買ったのだが。
「優ってあのとき居たんだっけ? っつーかそんな事憶えてたんだ……」
「良介の事で俺が忘れたことは無い」
小野寺は淀みなくそう、言い切った。
ちらりと向けられた視線があまりに真摯で、菱井は思わず顔を逸らしてブッシュ・ド・ノエルを見た。物珍しくて食べてみたかったケーキ。ほんの少し前まで自分自身が忘れていたもの。
(もしかして、俺のために買っといてくれたのか?)
いやまさか、と否定しつつ妙な緊張が抑えられない。それは不意打ちの歓喜にも似ていることに菱井は気づかなかった。
「さ、皿とか出してくれよ」
菱井に言われるまでもなく小野寺は食器を用意していた。だが皿もフォークも一つずつだ。
「優は食わねーの?」
「俺は別にいい」
(そういや優、別に甘党じゃなかったな)
やはりこのケーキは菱井のためのものなのだ。ケーキ皿に乗せるにはやや大きすぎるそれにフォークを入れるのには、かなり勇気が要った。
一口食べると、ココア色のバタークリームの濃厚な味がほろりと溶ける。ショートケーキの生クリームとは明らかに違う味だった。
「うめー……」
菱井は素直な感想を漏らした。そのちょうど良いタイミングで小野寺がコーヒー入りのマグカップをテーブルに置く。
「よかった」
向かいに座った小野寺が――本当に珍しく、皮肉抜きで微笑んだ。
顔に血が集まってくるのがわかる。頬が熱い。
「あちっ!」
菱井は慌ててコーヒーに口をつけ、舌を火傷した。
「馬鹿か?」
「悪かったな」
返す言葉にも力が入らない。調子が出ないのはクリスマスのせいなのだろうか、と菱井は混乱したままの思考で思った。
小野寺に見つめられている状況で、菱井は二口めを食べた。無言のまま食べ続け、スポンジでできた切り株がどんどん短くなっていく。胸がつかえるのは濃厚なバタークリームのためばかりでは、きっとない。
「なー、やっぱお前も食う?」
未だに落ち着かない気持ちのまま、菱井がケーキの一片を刺したフォークを前に出すと、小野寺は黙ってそれに食らいついた。微妙に上手く行かず口の端についたクリームを親指で拭い、舐めとる。視線は菱井に向けたまま。
「甘い」
理屈抜きで身体が熱くなる瞬間というものがあるならば、今だ。
菱井はフォークから手を離した。ミルクを足されてやや温くなったコーヒーも、改めて飲むころには冷たくなっているだろう。
(それより、朝になったら優に淹れ直させてやろう)
菱井はそんな事を考え、指で直にバタークリームを掬った。
リビングに脱ぎ捨てられた、菱井の上着のポケットの中から派手な音が鳴る。春に菱井がCDから録音して作った、洋楽の着信音だ。
だがその音は誰にも気づかれることなく、やがて力尽きたかのようにぷつりと途切れた。
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