菱井は、ソファの上で膝を抱えてテレビを眺めていた。見ていた、ではない。画面の放つ光は菱井の網膜を通るも脳内で像を結ばない。
「ただいまぁー」
玄関のほうから幽かだが可奈子の声が聞こえてきた。やっと帰ってきたらしい。
「可奈子! 遅くまで何処行ってたの?」
「友達と話してたら遅くなったの!」
それなら連絡しなさい、と言う母親の小言をすり抜けて、可奈子がリビングに入ってくる。
「お兄ちゃん。野球視てんの? 試合いまどんな感じ?」
しかし菱井は、あぁ、と明らかな生返事をしただけだった。
「なにその反応。どうしたの? ぼーっとしちゃって」
「……何でもねーよ」
小野寺といるところを菱井に見られていたとは知らない可奈子は、いつもと変わらぬ様子で兄に話しかけている。
解っているのだ、可奈子を責める謂われなど無いことは。
『やあねぇ、お兄ちゃん。おハナシと現実は別だってちゃんと解ってるわよ』
かつて可奈子がそう、菱井に語ったことがある。可奈子だって現実の、彼女自身のごく普通の恋愛に興味はあるのだ。ましてや相手はあの小野寺である。学校での彼の人気ぶりを考えれば、可奈子が小野寺に惹かれるのも不思議ではない。ましてや彼女は昔から小野寺に懐いていたのだ。
そして小野寺も、可奈子には優しかった。
菱井や他の男友達には王者の如く尊大なところがあったが、可奈子に対してだけは違っていたように思う。
『先輩もね、なーんか彼女の事すっごく大事にしてるって感じがしたよ』
当たり前だ。可奈子は未だ中学生である。軽い気持ちでなくとも手を出して良いわけがない。
ならば、自分は。
菱井と可奈子は、顔立ちはあまり似ていない。可奈子は幼い頃からよく人に可愛いと褒められていたし、菱井もそう思っている。一方で菱井自身は、どう贔屓目に見ても十人並みの容姿だ。
だがそれでも、二人は血の繋がった兄妹であり、似ているところが皆無ではないのだ。男である菱井は面倒なことがずっと、少ない。そして小野寺に対し北斗の件について大きな借りがある。正に都合の良い身代わりと言うわけだ。
「……可奈子」
「え? なんか言った?」
菱井は答えなかった。答えず膝の間に顔を埋めた。
平静を装おうとしても上手くいかない状態で、自分がどうするのか、考えなくてはならなかった。
「菱井、緑川。今日学校終わったらゲーセン行かないか、ってハナシしてるんだけど」
橘からの誘いを緑川は「ふむ」と彼独特の持って回った仕方で承諾したが、菱井は首を横に振った。
「ごめん、今日は俺予定入ってんだよねー」
「菱井君、デートの約束かい?」
「ちげーよ。んな久保っちが寄ってくる言い方すんなよなー」
そう言う菱井に橘は、ちょっと遅かったな、と肩を竦めた。
「おい、マジで菱井、俺達に隠れてカノジョ作ってるんじゃねーよな?」
「……久保っちって地獄耳? 違う違う、小学ん時のダチと会うんだよ」
間違った事は言ってねーよな、と思いつつ菱井は手にしていた携帯を開いた。それを見て橘達は各々の席に戻っていく。
『今日の放課後、優んち行くから』
二十字にも満たない文面である。だが、これが小野寺に送る初めての、菱井の自主的な訪問を告げるメールであった。
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