マンションのエントランスで鍵を差し込むとき。
小野寺の家のドア前に立ったとき。
菱井は、初めて抱かれるために小野寺の部屋に入ったとき以上の緊張を、覚えた。
思い切り息を吸い込み、祈るように目を瞑りインターフォンを押す。ドアはすぐに開けられた。
「入れ」
端的に言う小野寺の声は心なしか柔らかいように菱井には感じられた。菱井は一瞬、足を踏み入れるのを迷ったが軽く唇を噛みつつも小野寺の言葉に従った。
「今日は持ってきていないんだな、ペットボトル」
「あ……」
リビングに入るなり常とは違う点を指摘され、菱井の瞳が揺れる。だが菱井は、萎縮しそうになる心を叱咤して小野寺を見た。
「――なー、優。もうこんな事やめねーか?」
小野寺が眉を、顰める。
「北斗も天宮南斗と上手くいったし、理由無くなっただろ?」
「理由、だと?」
小野寺の声の響きによる威圧にたじろぎながらも、菱井ははっきりと、肯いた。
「ああ。契約は終わりだ」
「ふざけるな!!」
突如菱井の左肩を襲った痛み。そして掴まれた箇所を支点に菱井の身体はフローリングの床へと墜ちる。
「何すんだ優っ……!?」
抜かれたベルトが放られ音を立てる。菱井は、小野寺がしようとしている事を察知し顔色を失った。
「もー、やんねーって俺言った! は、離せ、はなせよっ!!」
暴れる菱井だが、押さえつけてくる力は強く逃れられない。腿に体重を掛けて乗られ下半身が動かなくなる。
「誰が止めるか。お前は憶えていると言ったはずだ」
小野寺の双眸は激しい怒りを湛えている。菱井の本能が、恐怖した。それほどに強い感情を小野寺からぶつけられた事は無かった。
小野寺の手は容赦なく菱井の肌を暴いてゆく。
だが、菱井は。
かつてないほど乱暴に扱われた行為の最中も、決して声を上げようとはしなかった。
目が覚めたときから、否、醒める前から重怠さが纏わりついて離れない。
奥の芯が、ひどく痛む。噛み痕や吸い痕がひりひりと――あぁ違う、熱と悪寒を持っているのは全身だ。覚醒したはずの意識が朦朧とする。緩慢な動作で額に触れると、まるで自分の身体ではないような気すらした。極度のストレスとショックの為であろうか。菱井自身が自覚していたより、それらはずっと大きかったらしい。
菱井は漸く、その場にいるのが自分だけである事に気が付いた。室内は静まり返り、ただ秒針の刻む音と自身の呼吸音だけが耳に入ってくる。
「う……ぁ……」
上半身を起こすだけでひどく疲れた。立ち上がっても恐らくはまともに歩を進められないだろう。
時計を見ると、既に授業は始まっている時間だった。
「やべー……!」
菱井は、意識を喪っている間に運び込まれたらしいベッドから転がり落ちるように出ると、畳んで置かれていた制服を何とか身に着けた。鞄を拾い、辿々しく玄関へと向かう。
「学校、行かねーと……」
二度と使わないであろうと思っていた鍵でドアを施錠し、エレベーターに乗って壁にもたれ掛かる。これだけでもやはり、菱井には大きな負担だった。身体の事を鑑みれば、そのまま小野寺の家で休むべきだっただろう――しかし。
(休んじまったらあいつが変に思う)
初めての時とクリスマスイブを除き小野寺の家に外泊した事は一度も無い。家族の誰も、昨晩菱井が何処にいたか知らない。自分は今、行方不明扱いかもしれないのだ。そんな状況で欠席でもしたら、北斗はひどく心配するだろう。事の始まりは北斗に笑顔を取り戻させるためであった以上、彼の表情を曇らせるわけには絶対にいかなかった。
「ほく、と……」
時折よろめき、コンクリートブロックの壁に手を突きつつ進む菱井はそれでも、まっすぐ前を見ていた。
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